2023年10月20日 この日も途中で小雨が降るあいにくの天気でした。
11人の修習生の参加予定が体調不良で5人が欠席、6人の参加でした。
最初に、谷真介弁護士が説明したことは
- 100年にわたるアスベスト紡織工場の操業で、工場の労働者、家族、近隣住民等に多数のアスベスト患者が発生しました。その被害救済の取り組みは遅れ、被害は埋もれたままでした。
- 2006年5月、原告被害者らは国の規制権限不行使の責任を問う国家賠償訴訟を提訴しました。国の加害責任を巡る攻防で、判決は一陣高裁で敗訴しましたが最終的に最高裁で(2014年10月9日)アスベスト被害に関して初めて国の責任を認定、確定しました。
説明は、原料の原石から紡織の工程の中で粉塵が発生し工場内外に飛散することから裁判提訴、勝利まで、わかりやすかったと思います。
私たち泉南アスベストの会が受け持ったのは、被害者の声の部分、どんな所に工場があったのか現地案内、環境被害の現地案内でした。そして、今回は特に、梶本政治医師没後30年を来年迎えるということもあって、200社以上のアスベスト工場が操業した時代に、その中心地域に住みながら、アスベストの有害性を訴え続けた梶本政治医師について少し詳しく知っていただきました。
元原告岡田さんのお話 アスベスト粉塵の舞う工場(母の仕事場)の中で育てられたため、酸素ボンベが離せなくなった生活、お風呂には胸がつかると苦しいのでお腹までしか入れないこと。裁判では労働者でないとして除外されたことなどを話しました。
元原告武村さん のお話 大阪高裁判決のその日に亡くなった母の遺影を持って法廷に入ったが、判決は何と全面敗訴だった。母の病気がアスベストが原因だとなかなかわからなかったと話しました。
元原告松島さんのお話 日常の生活の中にアスベストがある、そういう地域だった。何にも知らんかったから。 原告の夫と一緒に働いた工場の中には大量のアスベスト粉塵があり、会社をやめた後整理に3年もかかったと話しました。
元原告家族山田さんのお話 義父が中皮腫に罹り「お腹の中から槍で刺されるようだ」という苦しみを話しました。
「アトリエ泉南石綿の館」の中で。展示の説明や、この地で開業医だった父・梶本政治氏が石綿の危険性を訴え続けたこと、このアトリエを拠点に裁判勝訴後も被害者の掘り起こしや建設アスベスト訴訟支援を行っていることを話す梶本館長さん(中央)。
泉南石綿の碑の前で、憎むべき石綿であるが、この仕事で生活を支えてきた石綿でもあることなどを説明する志野さん。
フィールドワーク 男里川にかかる橋の上から「石綿村」と言われた地域(右手後方)について説明する柚岡さん(ハンドマイクを持つ人)
三好石綿工場からの当時の石綿粉じんの飛散について、農地だけでなく幼稚園(左手の赤い屋根の建物)まで白い粉が飛んで積もっていたこと、そして、農作業をしていた方が石綿肺で亡くなったこと、裁判では環境問題は扱われず、問題として残っていることなどを説明しました。
司法修習生の皆さんは、石綿工場がない中ですが、よく集中して聴いてくださいました。
後日、建設アスベスト訴訟公判の日の宣伝の時に裁判所前で「梶本さん、先日は大変お世話になりありがとうございました」と修習生の一人から声がかかったそうです。